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わが町紹介  〜白石開拓物語〜

北海道に新天地を求めて開拓民の子の学問所「善俗堂」は白石小学校の前身であった。

善俗堂誕生

 士族としての誇りを捨てきれなかった旧仙台藩白石の人々は、どんな環境にあっても子供たちの教育を忘れることはなかった。明治5年3月に土地割り当ての右二十八番地(佐藤孝郷)と二十九番地(小関新次)の間に学問所を開き、4月には善俗堂と名付けられた。カヤ葺き十八坪(六十平方メートル)で、今の北央信用組合白石支店(本通三丁目南)の位置である。翌年には早くも村人の寄付を受けて校舎の新築をしている。 初めは生徒18人、先生は杉山順と渡邊丹助の2人だった。開拓使から補助金36円を受けたが、授業料は10銭と15銭の二種類とし、貧しい児童には書籍や文房具を貸し与え、また村内の寄付を利殖して基金とするなど、活発に学校維持を図っている。 またこの学問所は村の会議の場としても使われた。この寺子屋が白石小学校の始まりである。その善俗堂には五つの定めがあり、

  1. 師弟の礼儀を大切にする
  2. 年上の人を敬い年下の人を憐れむ
  3. 学校で喧嘩しない
  4. 席の座り方は学問の進んでいる順で年齢の順も考える
  5. 火の用心をし道具の乱雑がないようにする
  というものだった。


善俗堂創設者 杉山 順
善俗堂創設者 杉山 順

 明治五年四月より善俗堂において師弟18名に読書を教授した。明治6年、善俗堂の定を作った。明治7年、村学舎において、引き続き子弟の教育にあたり明治14年・5年までつとめ、後を、名護屋熊雄に引き継ぎ、後日白石神社神官等をつとめ、56才で歿した。

明治七年に十二番に移転

 明治7年には善俗堂の生徒は31人となり、校舎が手狭になったので、白石村十二番地に校地百坪(330平方メートル)を求めて、村事務所を併置して校舎を建て、「村学舎」と言った。今の中央二条三丁目藤光鋼材(株)事務所の位置にあたる。明治8年頃の授業内容は、午前八時登校、読書、十時算学、十一時運筆、午後二時下校となっていた。
明治14年(1881)4月、校名が公立白石学校になり、15年に白石村の中心地の四十八番の現在地に校舎を新築し、建坪四十四坪(145.2平方メートル)となった。
さらに明治16年10月16日、村民の寄付486円あまりで三十五坪(115.5平方メートル)の校舎を増築した。明治18年になると補助金は25円20銭に削られたが、この年の総経費296円は補助金以外に協議費(今のPTA会費)と授業料でまかなわれていた。

明治33年 小学校理科教科書 巻1
明治33年 小学校理科教科書 巻1

簡易小学校、尋常小学校、尋常高等小学校と改称

 明治20年に白石簡易小学校が設置されて白石学校は自然廃止となり、進学希望者は創成小学校に通学した。明治23年4月には白石尋常小学校と改称した(白石村史による。さっぽろ文庫四十六巻では29年4月)。明治29年4月、修業年限が4年となり、10月には職員室など四十五坪と奉安殿も建設した。
明治31年6月、二年間の補習科が認可された。32年9月、大谷地に分教場を設けた。33年、さらに四十五坪増築し、6月には上白石小学校ができて分かれていった。
それでも校舎は手狭だった。34年4月、公立白石尋常高等小学校となり、高等科二年が設置されたが、35年4月には三年に、39年4月には四年になった。41年4月には義務教育が六年になり、それまでの高一・高二が小五・小六となった。
このころの児童の服装は、和服に下駄、わら靴などで、遠足にはおにぎりを腰につけて、起伏の多い村内を歩いたが、小川が流れ、畑の果樹にはサクランボがたわわで、虫も鳥も多く、自然が豊かだった。

明治33年の白石尋常高等小学校
明治33年の白石尋常高等小学校

戦時中は軍が一部を使用

 大正時代は9年と13年に校舎の増築を行っているが、大正10年当時で校舎1,221平方メートル、敷地21,848平方メートル、付属地21,562平方メートルを所有していた。この農業実施地は明治36年度から事業を始め、大正5年度までに8,194平方メートルを開墾した。大正11年5月の開校五十周年には、寄付金1,072円あまりで図書、理科器具、掛け図、標本、体操器具などを購入、子供たちを喜ばせた。
明治8年、新校舎を建てるために、しばらく二部授業を強いられ、昭和9年6月、校舎の全面改築され、校地も1,300平方メートル増えた。戦局が厳しくなった昭和16年4月、公立白石国民学校と改称し、この年の5月と10月に十日間ほど農繁休暇が実施された。
19年、軍部は北海道への敵軍上陸を想定して、白石村厚別に弾薬庫をひそかに造り、陸軍兵器補助厰を白石村南郷(今の白石区役所、南郷丘公園付近)に設置、陸軍鉄道司令部は本部を白石国民学校に置き、運動場や教室の一部を使用した。このため、高学年は教師の自宅で授業を受けるなど、授業場所の確保には苦労があった。

生徒急増で増築が間に合わず

 終戦後の昭和22年4月、教育制度が改正され、公立白石小学校と改称された。
23年4月にPTAが創設された。
昭和25年に白石村が札幌市に編入した後、中央地区に母子住宅、本通に市営住宅ができて、このころ地区の人口が急増し始めた。この年の7月に現在の校名である札幌市白石小学校となった。
昭和28年12月、通学区域変更で東園小学校へ一部の児童が移っていった。その後の増築も焼け石に水の状態で、児童増により昭和33年に本郷小学校を開校し、この年の10月と翌年9月に通学区域を変更した。ピーク時の昭和34年度には児童数2,082人、27学級そなり、すし詰め授業や二部授業をしても追いつかず、音楽室や理科室など六教室は五年間普通教室に転用されていた。 38年1月南郷小学校に分かれ、39年1月本通小学校、40年1月東札幌小学校、41年北郷小学校、47年12月西白石小学校に分かれていった。昭和48年10月、百周年記念式典を挙行し、新校舎が完成した。

札幌市白石小学校

吉葉山を迎え土俵開き (昭29.6.21)

白石町相撲同好会の好意によって本校の土俵開きに横綱吉葉山を迎えた。
この時、中庭において、本校児童と白石中学校の生徒、一般父兄も交え、これを見学した。

吉葉山を迎え土俵開き

新設土俵開き(昭 ・8・9)

 新しい体育館ができて、以前からの土俵がなくなったので、二八会の皆さんが「後輩のために……」と、新設寄付してくださった。地方巡業中の大関北葉山一行を紹聘し土俵開きを行った。

新設土俵開き